陸奥国分寺(宮城県仙台市若林区)
陸奥国分寺(むつ こくぶんじ)は、宮城県仙台市若林区木ノ下にある真言宗智山派の寺院。護国山医王院国分寺と号す。本尊は薬師如来。
聖武天皇の発願によって建立された国分寺の1つで、奈良時代の740年代頃に創建された。平安時代まで陸奥国の財政的支持を受けて大伽藍を維持したが、室町時代には著しく衰微した。真言宗になった時期は不明。17世紀初めに伊達政宗により再興され、1607年に建てられた薬師堂を中心に25坊を擁する大寺院として栄えた。明治時代に僧坊は1つを残して廃絶したが、薬師堂をはじめとする中心堂宇は維持された。
薬師堂は国の重要文化財に、古代の寺院跡は国の史跡に指定されている。薬師堂の南西の准胝観音堂(準胝観音堂)は、江戸時代に設定された仙台三十三観音の第25番札所である。
概要
8世紀半ばに陸奥国の国分寺として、国府がある多賀城からやや離れた位置に建立された。中心伽藍の敷地は2町(約240メートル)四方で、南から南大門、中門、金堂、中門と金堂の間を接続する回廊、講堂、僧坊などの建物があり、金堂の東方には七重塔があった[1]。文献史料により、貞観11年(869年)の貞観地震で被害を受けたこと、貞観15年(873年)頃に人心の動揺を鎮めるため五大菩薩像が造られたこと、承平4年(934年)に七重塔が落雷を受け、火災で失われたことが知られる。
鎌倉時代には不動明王像・毘沙門天像・十二神将像が製作され、それらは現在に伝世する。名取郡にある熊野堂新宮寺の一切経制作にも参加者があり、活発な動きが察せられる。しかし南北朝時代には「草堂一つのほか何もなし」と言われるほどに衰退した。
戦国時代には地元の領主国分盛重によって小規模な薬師堂が建てられ、本尊を納める厨子が制作された。この頃までに真言宗を宗派とし、金銅製の小さな薬師如来像を本尊とした。
17世紀初めに伊達政宗が大規模な造営を行ない、慶長11年(1607年)完成の薬師堂を中心に25坊を擁する大寺院として再興した。再興後は学頭坊(筆頭)・別当坊・院主坊の3坊が交代で寺務を執った。1月7日の夜に、本尊がある厨子の扉を年一夜だけ開く「七日堂」という行事があり、多数の参拝者で賑わった。隣接する白山神社を鎮守とし、その別当として3月3日の祭礼を取り仕切った。後に境内には準胝観音堂という仏堂も造られた。
明治時代には仙台藩の保護を失い、廃仏の風潮もあって急激に衰退し、25坊のうち24が廃絶した。唯一残った別当坊が、薬師堂の管理と陸奥国分寺の名を単独で引き受けた。この経緯から、元別当坊の建物群と薬師堂・仁王門は少し離れたところに位置している。
1950年代の発掘調査で古代寺院の伽藍配置の重要部分が判明し、その後も開発に伴う小規模な発掘調査が続いている。歴史的に貴重な文化財としては、鎌倉時代の作と推定される不動明王像・毘沙門天像・十二神将像、江戸時代に建てられた薬師堂・仁王門・鐘楼・准胝観音堂が現存する。このうち薬師堂は国の重要文化財に指定されている。古代寺院の跡としては、昔から知られていた塔の礎石と、発掘調査で見つかった回廊の礎石が見られる。
歴史
創建
仙台の近辺には、国分寺以前に2つの寺が開かれた。1つは南の郡山廃寺、もう1つは北の多賀城廃寺(観世音寺)で、いずれも国府の付属寺院である。国分寺の創建時には存在したが、今日までには廃絶している。
日本全国の国分寺と国分尼寺は、天平13年(741年)に聖武天皇が諸国に1つずつ造るよう命じたものである。しかし、詔が出てすぐに建てられたわけではなく、正確な創建年は明らかでない。出土遺物からの推定では、740年代から750年代とされる。
陸奥国分寺は、既に上記の国府附属寺院が存在したためか、国府がある多賀城から9.5キロメートル離れて置かれた。南小泉遺跡と呼ばれる古くからの集落の北である。建設の位置は、現在の国分寺と同位置に重なる。八脚門の形式をとる南大門、その北に方形の回廊でつなげた中門と金堂、北に建つ講堂、東に建つ七重塔は、いずれも瓦葺の礎石建物であった。これらは僧侶も気軽に立ち入れない空間であり、僧坊などの僧侶の生活を支える建物は、掘立柱建物で作られた。寺院の方形の敷地は築地か材木列で仕切られた。当時は一般の人々が寺の中に入って参拝する機会はなかったとされる。