多賀城跡(宮城県多賀城市)
多賀城(たがじょう/たかのき、多賀柵)は、現在の宮城県多賀城市にあった日本の古代城柵。国の特別史跡に指定されている(指定名称は「多賀城跡 附 寺跡」)。
奈良時代から平安時代に陸奥国府や鎮守府が置かれ、11世紀中頃までの東北地方の政治・軍事・文化の中心地であった。
■概要
奈良平城京の律令政府が蝦夷を支配するため、軍事拠点として松島丘陵の南東部分である塩釜丘陵上に設置した。平時は陸奥国を治める国府(役所)として機能した。周辺はかつて「潟の世界」が想定されていたが、BP1900~1500年にはすでに潟湖的環境は存在せず、かつて「潟」が存在した証拠の一つと例示された砂押川最下流部の「塩入」「塩留」「塩窪」などの地名についても再検討されている。
■歴史
神亀元年(724)- 大野東人によって創建される(多賀城碑)。
天平9年(737)- 『続日本紀』に北方を固める「天平五柵」とともに「多賀柵」として初出。天平五柵とは、石巻平野から大崎平野にかけて造営された牡鹿柵・新田柵・玉造柵・色麻柵の四柵と不明の一柵(伊東信雄は第五の柵に小田郡中山柵を充てた)。
天平宝字6年(762)- 藤原朝狩によって大規模に修造される(多賀城碑)。
宝亀11年(780)- 伊治呰麻呂の乱で焼失した後に、再建された事が書かれている[要説明]。
延暦21年(802)- 坂上田村麻呂が蝦夷への討伐を行い、戦線の移動に伴って鎮守府も胆沢城(岩手県奥州市)へ移されて、兵站的機能に変わったと考えられる。
貞観11年(869)- 陸奥国で巨大地震(貞観地震)が起こり、地震被害とともに城下は津波によって被災し、溺死者を千人ばかり出している(『日本三代実録』)。この後、「多賀国府」として復興。
11世紀前半頃 かろうじて維持された国府政庁は、11世紀後半には政庁隣接地に平場(ひらば)を設けると政庁に代わる宴会儀礼の場を整備し、国府中枢としての機能は大きく変質する。
11世紀後半 前九年の役や後三年の役においても軍事的拠点として機能し、承徳元年(1097)にも陸奥国府が焼失。
養和元年(1181)- 陸奥国府および「高用名」を拠点とする勢力は平泉の藤原秀郷を陸奥守として迎え入れ、八幡館(末の松山)および開発低湿地に拠点を置く陸奥介らの勢力と決別(けつべつ)する。前者の多賀国府の勢力は文治5年(1189)奥州合戦および大河兼任の乱で没落していったが、後者すなわち八幡館を拠点とする陸奥介は鎌倉幕府から地頭職を得て、鎌倉に屋地を得るまでになる。八幡荘は鎌倉将軍家を本所とする関東御領として存続した可能性が強い。
永仁7年(1299)- 2月朔日、大檀那介(おおだんなのすけ)平景綱が奥州末松山八幡宮に鐘を奉納している。
南北朝時代には、後醍醐天皇率いる建武政府において陸奥守に任じられた北畠顕家、父の北畠親房らが義良親王(後村上天皇)を奉じて多賀城へ赴き、ここに東北地方および北関東を支配する東北地方の新政府、陸奥将軍府が誕生。
昭和36年(1961)- 多賀城跡とその周辺の調査が始まる。
昭和41年(1966)- 4月11日、遺跡は国の特別史跡に指定される。
平成28年(2016)- 特別史跡指定から50年を迎える。
■アクセス
鉄道:JR東北本線(仙石東北ライン)国府多賀城駅より政庁跡まで徒歩約10分。
駐車場(無料)
最寄IC:三陸自動車道・多賀城IC
出典:Wikipedia
画像:Saigen Jiro 投稿者自身による著作物, CC0, リンクによる